2000年、民主進歩党陳水扁が総統となりました。多くの問題を抱えていましたが、台湾正名政策を意欲的に進めました。彼は蒋介石を台湾人を弾圧した独裁者と批判し、中正記念堂の名称を台湾民主紀念館に変更、蒋介石の像を白い布で隠し、儀仗隊交代式を中止しました。蒋介石は何をしたのでしょう。

日本では蒋介石として知られますが、台湾では蔣中正(ジアン・チョンチョン)の名が一般的です。

1887年、清国浙江省の生まれ、中国での学業の後、日本へ渡り、東京振武学校で学びました。1910年には日本陸軍に入隊する一方、孫文と出会い、翌年の辛亥革命に参加しました。この革命で清朝は崩壊しましたが、第二革命に失敗して孫文らとともに日本へ亡命することになります。孫文の死後、その後継者を自負し、1926年には国民党政府を掌握し、国民革命軍総司令官として北伐に成功、中国の統一を果たしました。

1945年まで、台湾は日本の統治下にありました。しかし、日本が戦争に負けると台湾は中国のものとなり、蒋介石は統治するための官僚や軍人を送り込んできました。日本統治時代,から台湾に住んでいた人たちは本省人といい、多くは16~17世紀に福建省や広東省から移民してきた人たちの子孫でした。

始めのうちは、祖国復帰と喜び、送り込まれた人々を歓迎した人たちもかなりいたようです。しかし、送り込まれてきた役人、軍人の腐敗ぶりは凄まじく、横暴や犯罪がまかり通り、治安は一気に悪化しました。これに失望し、市民がデモを行うと、国民党政府は武力で圧制を行い、裁判官、医師、役人といった知識人を次々に処刑し、一般市民に発砲、無差別な殺害を行いました。これが二・二八事件です。

1949年には中国共産党との戦いに敗れ、蒋介石自身が十数万人の軍隊と国民党政府を引き連れて台湾に避難してきました。しかし、状況は改善するどころか、戒厳令を発令、日本語の使用を禁止し、知識分子や左翼分子を徹底的に弾圧し続けました。この恐怖政治は白色テロと呼ばれます。このため、台湾にもとから住む本省人は国民党の政治に疎外感を持つようになりました。さらに政治、国営企業、メディアを日中戦争後に本土からやって来た外省人が独占したことから不平等感も生まれるようになりました。圧政と不公平の中、徐々に独裁反対、民主自由化の実現の機運は高まって行ったのです。

本省人の故郷は台湾でした。建省南部で話されている閩南語から派生した台湾語を話し、身分証には台湾省と記されていました。日本統治時代に学校では日本語を学ばねばなりませんでしたが、国民党政府が統治するようになると、北京語を学ばされました。台湾人の74%が本省人なのに、国語は北京語であり、公共の場では北京語を使わなければなりませんでした。

一方、外省人の故郷は中国本土でした。彼らは台湾を中国の一部と考え、いつか本土と統一され、故郷に戻るという考えを抱いていました。北京語を母語とし、身分証には出身の省名が入っていました。彼らは支配階級でした。

1975年に蒋介石が死ぬと、息子の蒋経国が総統となり、父親の政策を堅持しました。1979年の美麗島事件でも自由運動への強い弾圧が行いましたが、この事件をきっかけに、議会制民主主義や台湾本土化が進むこととなります。1984年に江南事件が起こり、アメリカからも民主化への圧力がかかってきました。1986年には蒋経国も政党結成を認めて国民党の独裁は終わり、1987年には戒厳令を解除、総統の世襲制もやめることが宣言されました。

1988年に蒋経国死ぬと、李登輝が総統代行となり、民主化を推し進めます。翌年、党内選挙で総統となり、国民党が台湾を統治し始めて以来改選されることのなかった万年国会を解散、1991年には国民大会が、翌年には立法議員が全面改選となりました。1994年には総統を民選とすること、1期4年の連続2期までとする制限を付すことが決められました。

1997年、李登輝政権はそれまでの歴史教育を見直し、中国ではなく台湾独自の歴史を扱う中学生向けの教科書、認識台湾を導入しましたが、その中でも二・二八事件や白色テロは扱われていません。

現在、馬英九を総統とする国民党の政府外交部が提供する中華民国のしおりでは、「大陸から急派された中華民国軍が、二二八事件に端を発する台湾住民の大規模な反乱を鎮圧」とあります。

現在、民主化後の世代が育ち始め、本省人と外省人という考えは過去のものとなりつつありますが、人々の間にはまだまだ強い自覚があり、政治、選挙、歴史について語られるとき、頭をもたげてくるのです。

面白いと思ったらクリックして下さい。

にほんブログ村 旅行ブログ 台湾旅行へ